2007年12月25日 (火曜日)

癌とたたかう

これは2006年12月28日の話です。

以前旦那さまの最期の戦いを綴ろうと思いつつ、どうしても27日以降のことはかけませんでした。⇒2006年12月27日

今日これを書いていて何度となく涙が溢れ途中でもう書けないとも思ったし、ブログという形に残すことをためらったりしました。

でも旦那さまが最期まで本当に戦ったということを残したい。今は昨日のことのように鮮明に思い出せることがいつか少しずつ記憶の隅に追いやられてしまうのは嫌。この思いだけでどうにか今記事になりました。

かなりの長文になってしまいました。読んでいて嫌な気持ちになる方もいるかもしれません。現在闘病中の方、またはそのご家族、そして旦那さまの知人。気分を害された方には先にお詫び申し上げます。

これは本当に身勝手な記事です。



2006年12月28日

朝から姉がお見舞いに来てくれました。車が壊れてしまったためにレンタカーをしようと考えていた私にカタログを持ってきてくれたのです。

それをみて旦那さまはかすれる声で「もう危ないからタクシーで来い。」と言いました。

でもこのとき既に私は病院から家へ戻るつもりはありませんでした。

もう旦那さまを一人にしておけない。前日の夜のつらそうな表情を見ていたら旦那さまのそばを離れることが怖くなっていたのです。

モルヒネの座薬もどうしても薬の効果が切れる時があって、そのたびにつらく咳き込み、吐き気と痛みに苦しむ旦那さま。朝の回診に来てくれた先生から、注射でモルヒネを断続的に入れることで旦那さまのつらさを取り除くと言われました。

早速準備を始める看護士さんに旦那さまは「もう頭が働かなくて何をされているのかよく分からない」とこぼしていました。すでに車椅子への移動もできなくなっていました。

昼過ぎになって旦那さまの親族の方が入れ替わり立ち代わりお見舞いに来てくれました。

そのたびに「お水をお出しして」と何度も私に訴えました。皆旦那さまの様子を見て驚き、「顔だけ見に来たのよ。私たちに気を使わないで。」と言って手を握ってすぐに病室を出て行きました。かすれた声で「ありがとうございます」と旦那さまは何度も言いました。

お見舞いがひと段落ついた頃、旦那さまは「ちょっと寝ていい・・・?」と私に聞いてきました。「いいよ。昨日の夜も眠れてないんだし、人も来たから疲れたでしょ。休んで。」と言うとあっという間に眠りに落ちました。

酸素をつけて肺で一生懸命息をしようとする旦那さまを私はじっと見ていました。

眠っている旦那さまのところに先生がいらっしゃいました。旦那さまは先生が来たことにも気付かずずっと眠ったままでした。先生は旦那さまの様子をじっと見て、私を病室の外に呼びました。

「左首のリンパ節にも腫瘍ができていて、それがさらに酸素の通りを悪くしています。薬の効き目で本人は既に眠っている感じだと思います。申し訳ないけど・・・」

「もうずっとあの状態なんですか?」と聞く私に、先生は「申し訳ないけど・・・」としか言ってくれませんでした。

それでも、このときまだ私は信じられませんでした。まだ受け入れられていませんでした。でも涙だけは止まりませんでした。

まさか・・・まさか・・・もう旦那さまの声を聞くことができなくなるの?旦那さまの寝るベッドの横に座り旦那さまの左手を握りました。

かすかに握り返してくれたような気がしました。そして意識のあるときにいつもそうしてくれたように私はそっとその左手を私の頬に持っていきました。

旦那さまの左手が私の頬に触れた瞬間、急に旦那さまは目を覚まし、身体を起こしました。調度看護士さんが部屋に来てくれました。

でも身体の痛みが激しいのか身の置き所が無いというかんじで右に左に身体を動かしてつらそうに苦しみました。私は見ていられずまた涙が止まらなくなりました。

看護士さんと私が身体をさすっても何をしても旦那さまは歯を食いしばって「う~」と痛みに耐え、ベッドや布団に当たるばかりです。

それでも涙の止まらない私を見て「大丈夫?」と言いました。

今思えば、あれほど自分が痛みに耐えている中でも私の泣き顔を心配そうに見るなんて・・・と旦那さまの深い愛を感じずにはいられません。

そのあと「もう疲れた・・・」とも。そして大きく目を見開いて私の目を見て、

「○○、・・・してるよ」「○○、・・・してるよ」と私の名前を呼んで2回言いました。声がかすれていてなんと言っているかはっきり聞き取れなかったけれども、私には「あいしてるよ」と言っているように聞こえました。

しばらくすると疲れたのかまた眠りました。

私はパニックを起こしていました。呼吸が苦しくなり過呼吸を起こしかけてしまいました。看護士さんが今度は私の傍に来て背中をさすってくれました。必死に呼吸を整えました。

でもこのときまだ私は、また目を覚ましてくれると思っていました。このときはまさかこれが最後の旦那さまの言葉になるとは思いませんでした。またしばらくしたら起きてくれる。手を握ったら握り返してくれる。ずっとこのままってわけではない。そう思っていました。

こんな状態でも私は旦那さまの死がまだ先のものだと思っていたのです。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2007年1月22日 (月曜日)

気持の変化

私は旦那さまが亡くなってからずっと彼に問いかけています。

「なんで?」「なんで置いていっちゃったの?」

それこそ旦那さまにひどいよ!と思いながら・・・

でも旦那さまは何も悪くない。むしろ、本当に最後まで、ぎりぎりまで病と闘って頑張ってくれた。

だからこそ本当は「ありがとう」「おつかれさま」って言ってあげたい。

でも旦那さまの遺影を眺めては、「これから私どうしていけばいいの?」「こんなにあなたが居なくなってしまって大変な思い、つらい思いをしてるんだよ?」「あなたが居ないと私は何もできないのに!」「さみしいよ、孤独だよ」と責めるようなことばかり考えてしまう・・・

そんな風に呼びかけられて旦那さまが安心して天国に行けるわけがない。。。

ようやく最近それに気付いてきました。

旦那さまと過ごした日々は本当に幸せだったし、沢山の愛と暖かい幸せな時間をくれた旦那さまにココロから感謝をしています。そして子どもを残してくれたことにも。

それをもっと伝えてあげなくちゃ・・・もっと「ありがとう」を沢山言わなくちゃ。

このブログに「書く」ということが私のココロを少しずつ冷静にさせてくれているように思います。

それでもこう気付くのにこんなに時間がかかってしまいました。。。旦那さま、ごめんね。

ただこれまで、最後の入院した日(25日)からの日々を綴ってきましたが、どうしても、どうしても28日・29日のことはまだ書けません。

思い出すのがやっぱりつらい。

未だに旦那さまと幸せに過ごした日々よりも、あの2日間のつらそうな旦那さまの表情が目に焼きついていて、とても冷静に向き合って文章にすることができないのです。

なので今日はご報告だけ。

前回の記事に書いた旦那さまの車ですが・・・結局修理代、これからの維持費を考えて、残念だけど手放すことにしました。

旦那さまとの思い出が一杯の車だから手放すのは本当に本当に迷ったけど、あのタイミングで壊れたことに何か意味があるように感じたんです。

あそこで壊れなかったら病院にも泊まれなかったし・・・

それと同時に、ずいぶん前に旦那さまと車に乗っているときに私が「あの車かわいい。セカンドカーで欲しいな~」なんて冗談で言っていた車が思いがけず手に入ることになったんです。旦那さまの車よりだいぶ小さくなっちゃうけど、これから子どもと二人になることを考えたら十分だし・・・

なんとな~く旦那さまが「車替えちゃいな」って導いてくれてる気がして、決断しちゃいました。

あの日以来ずっと修理工場にあるあの車を見たら「やっぱり手放したくない!」って思ってしまうかもしれないけれど、そのときはそのとき。

写真を一杯撮って思い出をしっかりココロにしまって新たな一歩をまず進みたいと思います。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年1月18日 (木曜日)

にぎやかな我が家

あっという間に1週間がたちます。

何をしてたんだっけ??と考えると平日はもろもろの手続き関連に必要な書類を集めてみたり、銀行へ行ったり・・・

人が亡くなる、特に世帯主が亡くなるっていうのは本当に大変なことです。

色々な手続きが必要になってくるからです。会社の方にお願いしたり、まだほとんど手をつけていませんが、子どもが生まれる前で私が動けるうちにやらなければ・・・と気が焦るばかりです。

そして週末になると友人が遊びに来てくれます。

私が一人で落ち込みすぎないように。気を紛らわせるために。

これがかなり助かっています。

はじめ私は気を紛らわせることが、旦那さまが居なくなったことを認められなくて逃げている気がして嫌でした。”事実として受け止めなくちゃいけない、子どもが生まれてくるし、いつまでも弱いままじゃダメだ”って。

でもどんなに考えて認めなくちゃと思ってみたところで、旦那さまのことを思い出しては涙が止まらないばかりで、結局何も消化できないままだってことが分かりました。

だから逃げてるかもしれないけど、考えないようにしているかんじです。

正直、泣いて暮らして何かが変わるならって思います。涙は尽きないからこそ、無理してでも人前ではできるだけ泣かないようにして、気持を紛らわすことにしています。

それがいいのか悪いのかなんて分かりません。

でもきっとこのまま子どもが生まれてきたらさらに忙しくなってなんとなく時間が流れていくのかなぁ。と思います。

どんなに気を紛らわしていたって旦那さまを思う気持は誰にも負けずに持っている自信はあるし、きっとそれでいいのかな。って。

だから今は毎日がなんとなく忙しく過ぎていることに感謝しています。

そして、相変わらず苦しいほどにお腹を蹴ってくるお腹の子にも。

2006年12月27日

この日はかなり弱っている旦那さまが病院で待っていると思い、いつもより早めに病院へ向かいました。

家族は既に臨月に入ろうとしている私が一人で高速を運転して病院へ行くことをとにかく心配していました。

それでも私は「大丈夫だから。今さら電車で病院なんて行けない。荷物もあるし。」と言っていました。

しかしこの日、年末渋滞の高速で車のエンジンが突然2回ほど落ちたのです。

どうにかエンジンをかけなおし、一番近い出口から降りました。ガソリンスタンドへ飛び込んだものの外車のために直す部品はなく、修理工場へ持っていかなければということでなんの処置もできませんでした。

一度家に戻るかこのまま病院へ向かうか迷いました。この車が既に悲鳴を上げていることは明らかでした。どこかで止まってしまうかもしれない・・・それなら家に戻る途中より、少しでも病院の近くへ行こう。と決心して、高速には乗らず慎重に一般道で病院へ向かいました。

何度かエンジンが落ちていました。その度にエンジンを掛けなおしてはどうにか運転を続けていました。しかし、終にイギリス大使館の前でエンジンが落ち、ハンドルがロックされ、ブレーキも効かなくなり、前の軽自動車に追突しそうになりました。ぎりぎりで事故にはいたらなかったものの、さすがにこれ以上の運転は無理だとあきらめ、イギリス大使館の前にいる警察の協力のもと、車を左に寄せてJAF待ちとなりました。

・・・すでに家を出てから2時間がたっていました。

旦那さまがつらい思いをしながら待ってる。早く来てって言ってる。でもどうすることもできませんでした。

何度か車が故障して病院に着くのが遅くなる。と状況報告のメールをしました。

でも旦那さまからの返信はあまりありませんでした。既にメールを打つのもつらい状況だったのです。

1時間ほどしてからJAFが来てくれました。修理工場に車を運んでもらい、身重の私を見かねて病院まで荷物を運んでくれました。

12時に家を出たはずが病院についたのは17時でした。

「ごめんね・・・」と私。「仕方ないよ。大丈夫だった?」既に声が出づらくなってかすれた声で旦那さまは言いました。

途中会社のボスから電話があり、今日お見舞いに来てくださることを旦那さまに伝えました。

「まじで・・・」あわてて旦那さまは髭を剃り始めました。私はそれを見て少し安心しました。

ここしばらく、髭を剃る元気もなかったけど、さすがに会長がいらしてくださるとなれば剃るんだな。まだまだ気力がしっかりしている。と。

一方で私は病院へ相談していました。緩和ケア病棟へ移れないか。

緩和ケア病棟なら家族も一緒に泊まれるからです。旦那さまはこのとき既に私に「帰らないで欲しい」と言っていたのです。でも病院からは緩和ケア病棟へ入るには本人が既に治療方法が無いということを認識していなければいけないと言われました。旦那さまと私はまだ年末には家に帰るつもりでいたし、遺伝子治療薬を試す予定でした。

そんな旦那さまに緩和ケアへ移ることを話すのはもう手の施しようがないとあきらめることを伝えることになります。

ただ看護士さんは私の身体も心配してくれていました。個室なら泊まってもいいよ。ということで無理やり個室に入れてもらうことになりました。

旦那さまには車が壊れたために、私が病院へ通うのがこの身体ではつらいことを言って私のわがままで個室へ入れてもらうという話をしました。

旦那さまは喜んでくれました。「泊まってくれて嬉しい」と言ってくれました。

それでもこの時はまだ、1日おきに一泊するつもりでした。だから旦那さまには「一日おきだけどね。洗濯物とかもあるし。それでもいい?」と聞きました。旦那さまはこのときとても寂しそうな顔をして「ずっと傍に居て欲しい」と言いました。

これまでの入院生活で、旦那さまは常に自分より私の身体とお腹の子を心配してくれていました。「病院へのお見舞いも毎日じゃなくていい。無理しなくていい。」と常に言っていました。でも今回ばかりは「ずっと一緒に居て欲しい」と初めて弱音を吐きました。

このとき私は怖くなりました。25日に先生に言われたことがよみがえりました。旦那さまがそれに気付いているのか。本当にそうなってしまうのか・・・もう旦那さまの傍を離れられないと思いました。

会社の方々がお見舞いに来てくれて、とにかく大きな声で旦那さまを励ましてくれました。旦那さまは目を潤ませながらうなずいていました。

このとき旦那さまはどんな思いだったんだろう。。。自分の命がどこまで持つか・・・不安で一杯だったと思います。それでも子どもに会いたいという一心で必死で前を向こうとしてくれていました。

この日の夜、旦那さまは1時間おきに目を覚ましていました。入院して以来絶食となり、水分を取ることも止められていました。それでも起き上がっては少しずつ水を口に含みうがいをしてごまかし、時には少しずつ飲んだりもしていました。C1000を口に含んではうがいをしていました。

「ごくごく飲みたい」「このままじゃ脱水しちゃう」「冷たい水が飲みたい」1時間おきに起きるたびにそう言っていました。

既に家に居た頃からは信じられないほど体力が落ちていました。目もうつろな状態となっていました。寝ているだけでも身体が痛くて身の置き所がなかったようです。床ずれもできていました。

それでもまだ27日の時点では車椅子へ移動することができていました。そしてトイレへ行ってどうにか便を出そうとがんばっていました。

「このまま便が出なかったらどうなるの・・・?」と不安そうに看護士さんにも聞いていました。

入院してから一層酸素を手放せなくなっていました。酸素の流用量も家に居た頃は2.0ℓだったのが、2.5~3.0ℓとなっていました。

どう見ても急激に弱っていっていました。認めたくなかったけれど認めざるを得ませんでした。暇さえあれば旦那さまの手を握っていました。

ただこのときはまだ握り返してくれていました。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2007年1月13日 (土曜日)

妊娠37週

いよいよいつ生まれてもいい時期に入りました。

年末からのバタバタで周囲から「だいぶ下がってきているから(生まれるのが)早いかもね。」なんて言われていました。

年明け初の妊婦検診。

旦那さまが立会いを希望して計画出産を予定していましたが、旦那さまが天国へ行ってしまった今、計画出産である必要がなくなりました。

旦那さまは「俺がこういう状況じゃなければできるだけ自然に産んでほしいと思う」と言っていました。だから私は極力自然の流れに任せようと思い、検診の日、先生にそのことを話そうと思っていました。もちろん主治医の先生は旦那さまが年末に亡くなったことなど知るはずがありません。なんとなく気が重いまま病院へ向かいました。

診察室に入ると、先生が「立会いクラス、結局出れなかったけど、もう旦那さん立ち会えるようにしてるから。安心して。」と言ってくれました。立会いを強く希望していた旦那さまの気持を汲み取ってしてくださった配慮でした。ありがたくて涙が出そうでした。通常なら立会いクラスに参加しないと立会いできないはずです。すべてを先生にお話していたので特別にそうしてくださったのです。

でも「実は主人が年末に亡くなったんです・・・」と話すと先生は驚いた様子で「そっか・・・じゃぁ、がんばらなきゃね。」と言ってくださいました。計画出産でなく自然に任せることもお話しました。

ただ1つの気がかりが四十九日法要と私の出産・入院が重なることでした。そのことも含め、先生に相談しました。初産だから予定日より遅くなるかもしれない。そうすると法要の日と重なるかもしれない。こればっかりは先生もなんとも言えないようでした。

でも法要をやらないわけにはいけませんし、法要の時に私が居ないわけにもいきません。

先生と出した結論は予定日を過ぎてしまった場合はすぐに計画出産にして法要までにはぎりぎり退院できるようにしよう。ということでした。

いずれにしても予定日を1週間以上過ぎると促進剤を使うことになるそうです。ただ私の場合1週間以上すぎてからでは四十九日法要の日と重なってしまいます。だからその時期を1週間早めてしまおう。ということでした。

やむを得ない。。。予定日までに自然に出てきてくれればそれで良し。そうじゃなければこればっかりは旦那さまも許してくれるでしょう。

お腹の子は相変わらず良く動いています。お腹の子のおかげでどんなに落ち込んでいてもお腹が空きます。

チビタに早く逢いたい。今はそれだけです。先生は私を気遣っていつもより長めにエコーでチビタを見せてくれました。チビタはエコーで見る限りとても元気そうでした。

少しずつ気持が落着いてきているものの、音楽を聴いたり、家の近所を歩くだけで旦那さまの姿や声がよみがえってきます。

2006年12月26日

この日は旦那さまのお母様とお姉さん・弟さんを呼び出し、4人で改めて先生から話を聞きました。

昨日よりいくらか冷静に詳細な状態を聞くことができました。やはり便が出ないことには腹水も溜まっていて身体に水分や食べ物を摂取することができないということでした。ここ2・3日中にお腹を動かす注射をするからそれによって便が出れば少し安心できるけど・・・ということでした。

人工呼吸器については旦那さまのお母様は結局これまでがんばってきた私の決めたことに従うということでした。

旦那さまのお父様が肺癌で亡くなったとき、旦那さまは同様の選択を長男として迫られたそうです。そのとき、旦那さまは人工呼吸器はしてほしくない。と言ったそうです。それはお父様の意に反することだから。と言って。

私は先生から言われたとき、もちろん、一日でも長く生きてほしい。と思いました。でもそれは旦那さまが苦しく無い状態で、生まれてくる子とコミュニケーションを取れる状態であることに意味があると思いました。

私は先生に人工呼吸器は使わなくていい。と話ました。

万が一呼吸困難に陥った場合、とにかく旦那さまの苦しみを緩和してあげてほしい。それが一番の希望だったのです。

お腹の子を旦那さまは抱くことができないかもしれない。

考えただけで、旦那さまがどれほど無念か・・・涙が止まりませんでした。せめてお腹の子が歩く頃までは・・・とも思っていました。いや、せめて抱かせてあげたい。。。

でも現実を突きつけられてしまいました。

肺に転移した頃から少しずつ覚悟しなければ・・・と思ってきました。

でもそんな覚悟はできるわけがありませんでした。

だって、先生にそういわれた時でも、まだ奇跡が起きるのではないかと思っていたのです。

1月から始める遺伝子治療薬も試せるんじゃないか。それで劇的に回復したりしないか。

あきらめきれないんです。

せめて旦那さまとお腹の子を会わせてあげたい。そう強く思いました。

旦那さまの前ではできるだけ涙を見せまいとしていても一人になった瞬間涙がとまらなくなります。

周りの人は「ためこまないで」って言うけど、別に吐き出したところで事態が変わるわけじゃない。「何でも言って」って言われても・・・じゃぁ、旦那さまを助けてよ。ってなっちゃう。

下手になぐさめられるくらいなら一人でいたほうが楽だと思いました。

ただ、旦那さまの会社のボスに私はいつも泣きながら電話をしてしまったけれど、そのたびに「大丈夫」って言ってくれました。

こうなってみて思うのは下手ななぐさめなんていらない。ただ大きな声で「大丈夫」って。なんの根拠がなくても、無責任かもしれなくても、そう言ってもらえたのが私は一番嬉しかった。それだけでなんとか気持を取り戻せていました。

だって旦那さまの傍に居て様子を見ていると嫌でも嫌な考えが頭をよぎるんです。そこに追い討ちを掛けられるより、気休めと分かっていても「大丈夫」って言ってもらったほうがいい。

まだ信じられない、見ていて旦那さまはすごくつらそうだけど、それでも信じられない。旦那さまが死ぬなんて・・・

いつか受け止められるときがくるんだろうか・・・想像できないよ。

旦那さまは既に痛みでベッドに横になることすらできない状態でした。緩和のためのモルヒネの座薬がこの日から始まりました。それでも身の置き所がなく、ストレスがピークに達しているのを感じました。

「ちくしょー」と言って布団やベッドを殴っていました。

床ずれ防止の病院のベッドマットが気に入らないと言い、看護士さんにわがままを言ってマットを変えてもらいました。

また、病院側が「年末年始は家に帰してあげたい」と言ってくれていることを伝えると「患者を帰して(自分が)休みたいんだろ」と悪態をついていました。

これまで見たことの無い旦那さまに正直戸惑いました。

これほど旦那さまは追い詰められているのに、私は何もしてあげることができないんだな・・・

この日、私は後ろ髪を引かれる思いで旦那さまの病室をあとにしました。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2007年1月10日 (水曜日)

クリスマスプレゼント

よにんべやにも書きましたが、旦那さまの姿が見えなくなってから早くも10日以上が立ちました。

目の前には旦那さまがこちらを向いて微笑んでいる写真があります。どうしても、どうしても信じられない。

どこへ行っても旦那さまの姿を探し、思い出しては涙を抑えられない日々が続いています。

この思いはいつか時間が解決してくれるんだろうか・・・

今は家族が家にずっと居てくれています。そして週末には友人が寂しくないように。と遊びに来てくれます。

なんとなく気持がまぎれているは事実ですが、気持がまぎれればまぎれるほど現実として受け止められていない自分を感じます。

ブログには正直に、すべてを鮮明に書き残しておきたいという気持が今は強くあります。

何から書こう。。。本来なら少しでも前向きな内容で書くべきかもしれないけど、今は現実にあったこと、感じたことを正直に書いていこうと思います。

2006年12月25日

クリスマスの日、旦那さまは再度入院しました。

前の週の水曜日、診察中に強い吐き気を見せた旦那さまは脳転移の可能性を言われました。

それ以来食事を受け付けられず、強い吐き気に悩まされました。

顔は真っ白で明らかに貧血を起こしています。薬で咳を抑えられていくらか夜眠ることができるようになったものの、上体を起こしたとたんに吐き気が襲います。

食べようと試みても身体が受け付けない、水分をとっても吐き気で出てしまう。

正直見ていられないほどに身体も痩せ細ってしまいました。私も脳転移した場合のことをネットで調べては落ち込んでいきました。

そしてこの日、CT撮影のために病院へ行きました。このときすでに家から車まで松葉杖歩行すらできない状態で、車椅子に乗って家から車まで移動しました。

貧血もひどそうだし、放射線治療も外来で通うのは今の旦那さまの体力では無理だと言って即入院することになりました。

CT撮影の結果・・・脳転移はありませんでした。ほっと胸をなでおろしました。

でも病院へ行くまでの車の中で今までで一番ひどい吐き気が旦那さまを襲っていました。

今日病院へこられたのがぎりぎりだったな・・・

動けなくなったために右足もやせ細って立つのもフラフラです。

すぐに病院で点滴を受け、輸血を受けました。

年明けの遺伝子治療薬投与のためにもどうにか体力を戻し吐き気を抑えられないと、投与しに行くことすら難しくなります。

でも脳転移がなくてよかった・・・そう思っていたのも束の間、先生から「~先生から電話が入ってるんだけど?」と不自然に私だけが病室の外へ呼ばれました。

面談室へ通されて先生が神妙な面持ちで、「脳転移がなくてよかったんだけど、おなかの具合を見たら致命傷になるものがあって・・・」と切り出されました。

腸閉塞を起こしているといわれました。強い吐き気によってむせてしまうと、右肺がつぶれている今、左肺への負担から呼吸困難に陥る可能性がある。と言われてしまいました。この腸閉塞もおそらくお腹に転移したがん細胞があり悪さをしているようです。

そうなってしまった場合、それが年末年始・あるいは私の出産と重なった場合に医療でどこまで補うべきか決めておいてほしいといわれました。

それは人工呼吸器を使った延命治療か、緩和治療だけか。というものです。

いずれにしても余命が長くないことを宣告されました。とうとう言われてしまいました。

・・・人生最悪のクリスマスプレゼントでした。

とても一人では決められず、私はただ先生と看護士さんの前で泣くことしかできませんでした。

先生からはさらに「体力を戻そうとして無理して食事をとることのないよう、ご主人にお話してください。」と言われていました。

一人で先生から話を聞いた後、私はなかなか病室に戻れませんでした。旦那さまに腫らした目を見られてはいけないという思いからです。

別室でどうにか涙をこらえ、平常心を装わなくてはと思いました。次々に看護士さんがなぐさめに来てくれました。

でもなかなか抑えられない。少し気をぬけば発狂しそうになりました。

現実を受け入れられない自分がいました。

まだ旦那さまは自分の病状を気にし、血液検査の結果を気にしていました。

どうにか涙を抑え、病室へ戻った私に「なんだって?」と聞いてきました。

「点滴で栄養は補給するから無理してご飯とか食べようとしないほうがいいみたいだよ。遺伝子治療薬のこととかいろいろ話してきたから。」

なんと言っていいのかわからず、こんな言葉しかでませんでした。旦那さまがこのときどう感じたのかは分かりません。

ついに病院からは「絶食」の言葉。

お腹にたまっている便が出ず、胃腸が正常に働かないことには食事を取ることが致命傷になると判断されたからです。

それこそ、水分を取ることも危険と言われました。冷たい水をゴクゴク飲むのが大好きな旦那さま。いつも家で水を飲むときも氷を入れていました。

その旦那さまが水分補給すら制限され、口をゆすぐ程度なら・・・と言われてしまいました。

正直、私はそこまで強く制限することができませんでした。

何より、食事を取らないことで体力が落ちることが不安だったのです。そして脱水症状を起こすのではないかと・・・

人間の身体は本当に難しいです。通常ならば、便を出すには水分が必要だと思うし、体力をつけるには食事が欠かせません。

それでも今の旦那さまの状況ではそれが致命傷になる・・・いまいち正確に理解できないまま病院の言われたとおりに旦那さまに話すしかできませんでした。

| | コメント (6) | トラックバック (0)